泣くと。

兵器擬人化一次創作と映画の感想と日常

大和という戦艦


昨年、「伝承・戦艦大和」が新装版になって出版されたので、買おうかどうか未だに迷っている夜井です。もう1年が経つのか。
93年版は古書店で買ったんですが、内容にはどれくらいの差異があるんでしょうか。レビューを見ていないので、まだ把握できていないんですが、もし新旧版を読み比べた方がいらっしゃったらぜひ教えていただけますと幸いです。

さて、本日12月16日は、戦艦大和の就役した日です。
戦艦大和について少しだけ私見を語ってみましょう。

まずは戦艦大和のおさらい。
かの時代、アメリカを仮想敵国と定め、工業力の劣る日本は「量よりも質!」というコンセプトのもと、最高品質の戦艦を作り上げようとしたわけです。それが大和型。
戦艦としては史上最大の46cm砲を搭載し、装甲もその主砲に耐えうるものであり、あれだけの巨体でありながら、パナマ運河が航行できるよう最大限コンパクトにまとめられた艦なのです。
建造費用は当時の国家予算の約3%にものぼります。

近い未来に来るべき戦争に備えた建艦ではありましたが、当時少将であった山本五十六長官は大和の存在には懐疑的でした。
皆様ご存知のように、第二次世界大戦は航空戦力が台頭していった時代。日本にとって開戦の狼煙となった真珠湾攻撃も、空母から発艦した航空機によって行われました。
また、大和も生まれ持った才能を活かすことなく、1945年4月7日に坊ノ岬沖海戦で米空母群の航空機たちの攻撃によって喪失します。

そして敗戦の際、艦船建造に関する資料の焼却処分命令が下され、大和の工事記録も焼かれてしまいました。
しかし、意外にもその図面や資料は原勝洋氏によってアメリカで発見されています。それは終戦直後に牧野茂氏が有志を集めて復元した図面とのこと。
本来であれば、世間に出回るはずのない最高機密の図面や資料が見つかったのは運命だったのかもしれません。何か見えない力が大和の痕跡を消させまいと働きかけたかのようにすら感じます。

「生まれる時代を間違えた」
などという一言では済ませられない、戦艦大和の複雑な運命。
勇壮で、優美で、もっとも華やかな戦艦の散り際は桜の花に似ていて儚く、どうも惹き付けられてしまいます。
戦時中は「大和ホテル」と後ろ指をさされることもあり、戦後には「世界三大無駄建造物」と嗤笑され、何かと不遇な云われ方をする大和。トラック泊地で錨を下ろして9ヶ月もの間に出撃せずにいたから、今は沈んでしまって何の役にも立たないから、確かにそうなのかもしれません。
しかし、ニコンのカメラのファインダーを覗けば測距儀の技術が、ホテルニューオータニの回転展望台には砲塔旋回の技術が、軍艦に限らず世界各国の艦船にはバルバス・バウが、巨大な船体を作るためのブロック工法が、大和の軌跡は今日もどこかに続いています。
先ほど、大和を表現するのに「儚い」という言葉を使いましたが、大和はまさしく「人の夢」のような存在です。
世界一の砲を積み、世界一の排水量を持ち、世界一の主砲装甲厚を持っていました。それは造船技術者の人々が情熱を注いで実現した揺るぎない事実。その当時、日本が世界最強の戦艦を作り上げたという誇りは、大きな支えになっているのではないかな、と思います。

そんなふうに人々の心を惹き付けてやまない戦艦大和は、今はその勇姿を見ることは叶わずとも、「確かにそこにいた」こと。
その歴史を知れば知るほど、かつて日本のために戦った大和のことも、現代に息づいた大和の痕跡も、いとおしくて仕方ありません。これから先もそんな大和のことをひとつひとつ知っていくことができたらな、と思います。
まとまらない文章ではありますが、本日はこのあたりで筆を置こうかと思います。

76年前の今日、めでたく竣工した戦艦大和と、大和に関わった全ての人々に敬意を込めて。



2017年12月16日
夜井 真人